アーノルド・シュワルツェネッガーとは?ミスター・オリンピア7勝のボディビル戦績|初優勝は23歳65日、1980年は前日エントリーで復帰優勝

2026年10月13日 公開 / 2026年10月13日 更新
胸が厚くウエストの細い1970年代風のボディビルダーが、低いポージング台の上でフロントダブルバイセップスをとり、足元に小さな像のトロフィーが置かれたイラスト。力こぶとトロフィーをライム色で示している

アーノルド・シュワルツェネッガーは、『ターミネーター』で世界的なスターになる前、ボディビルの最高峰ミスター・オリンピアを7回制した選手でした。内訳は1970年から1975年までの6連覇と、引退して5年後の1980年の1回です。7回はメンズ・オープンの歴代3位タイの記録で、上にいるのは8回のリー・ヘイニーとロニー・コールマンの2人だけ。1970年の初優勝は23歳65日で、いまもギネス世界記録の「最年少のミスター・オリンピア優勝者」として残っています。

「シュワちゃん」の呼び名で親しまれた俳優であり、カリフォルニア州知事も務めた人ですが、シュワルツェネッガーの経歴の出発点はボディビルの舞台でした。俳優の前に何をしていた人なのか、その答えを大会の記録の側から追っていきます。

  • ミスター・オリンピアは7勝。1970〜75年の6連覇と1980年。初挑戦の1969年はセルジオ・オリバに敗れて2位
  • 1970年10月3日の初優勝は23歳65日で、ギネス世界記録の最年少記録
  • 1971年のオリンピアは出場予定の4人のうち3人が失格になり、対抗馬なしで勝った
  • 1980年は大会前日にエントリーして優勝。準備不足の体で勝ったとして、いまも論争が続く

ミスター・オリンピアがどういう大会で、何を競い、どうやって出場権を得るのかはミスター・オリンピアとは?に書いてあります。あちらが大会そのものの解説、こちらは7回勝った1人の選手の戦績を追う人物の記事です。

ボディビルの戦績表|20歳でミスター・ユニバース、23歳でオリンピア初優勝

シュワルツェネッガーは1947年7月30日、オーストリアのシュタイアーマルク州タールで生まれました。主なタイトルを年順に並べると次のとおりです。英語版Wikipediaの戦績欄を軸に、ギネス世界記録の記載と突き合わせました(2026年10月13日確認)。

年(年齢)大会結果
1965年(18歳)ジュニア・ミスター・ヨーロッパ(ドイツ)優勝
1966年(19歳)ミスター・ヨーロッパ(ドイツ)優勝
1967年(20歳)NABBAミスター・ユニバース アマチュア(ロンドン)優勝。同大会の最年少優勝
1968年(21歳)NABBAミスター・ユニバース プロ(ロンドン)優勝
1969年(22歳)IFBBミスター・ユニバース(ニューヨーク)優勝
1969年(22歳)ミスター・オリンピア(ニューヨーク)2位。セルジオ・オリバに敗れる
1970年(23歳)AAUミスター・ワールド(コロンバス)優勝。オリバに初めて勝つ
1970年(23歳)ミスター・オリンピア(ニューヨーク)初優勝
1971〜1975年ミスター・オリンピア5年続けて優勝(6連覇)
1980年(33歳)ミスター・オリンピア(シドニー)優勝(通算7勝目)

NABBAのプロのミスター・ユニバースは1968年から1970年まで3年続けて取っていて、1970年には少年時代の憧れだったレグ・パークを破っています。1960年代末から1970年の時点では、ボディビルの団体はひとつにまとまっていませんでした。イギリスのNABBA、アメリカのAAU、そしてオリンピアを主催するIFBBがそれぞれミスター・ユニバースやミスター・ワールドを持っていて、シュワルツェネッガーはその主要なタイトルをほとんど総なめにしています。

表で目を引くのは1969年です。ミスター・ユニバースを2つ取った年に、オリンピアでは3連覇中だったセルジオ・オリバに届かず2位でした。翌1970年、コロンバスのミスター・ワールドでオリバに初めて勝ち、その勢いのまま10月のオリンピアで初優勝します。

オリンピア7勝の内訳|6連覇は1970〜75年、7勝目は5年ぶりの1980年

7回の優勝を、開催地と出来事つきで並べます。開催地は英語版Wikipediaの戦績欄、初優勝の日付と年齢はギネス世界記録のページで確認しました。

年開催地その年の出来事
1970年ニューヨーク(アメリカ)10月3日、23歳65日で初優勝
1971年パリ(フランス)対抗馬なしで2連覇
1972年エッセン(西ドイツ)3連覇
1973年ニューヨーク4連覇
1974年ニューヨーク5連覇
1975年プレトリア(南アフリカ)6連覇。大会後に引退を表明
1980年シドニー(オーストラリア)前日エントリーで復帰優勝

6連覇は1970年から1975年です。海外のまとめ記事の中には連覇を「1970〜73年」と書いているものもありますが、ギネス世界記録は「1970年から1975年まで毎年優勝」と書いていて、開催地の記録とも合います。

歴代のメンズ・オープン王者の中での位置も見ておきます。

選手優勝回数年
リー・ヘイニー8回1984〜1991年(8連覇)
ロニー・コールマン8回1998〜2005年(8連覇)
アーノルド・シュワルツェネッガー7回1970〜1975年、1980年
フィル・ヒース7回2011〜2017年(7連覇)

7回のうち連覇は6で、ヘイニー、コールマン、ヒースのように最後まで連続ではありません。そのぶん、間の5年の空白と1980年の1勝が、この選手の経歴でいちばん語られる部分になっています。ほかの歴代王者の年表や近年の優勝者は、ミスター・オリンピアとは?の「歴代最強は誰か」の表に並べてあります。

1971年は対抗馬なしで優勝|オリバらがIFBBに締め出された

1971年9月25日、パリのメゾン・ド・ラ・ミュチュアリテで行われた第7回大会は、出場予定の4人のうち3人が失格になり、シュワルツェネッガーは対抗馬なしで勝ちました。英語版Wikipediaの大会ページと、ボディビル史の専門サイト The Barbell の記事(Greg Merritt、2023年3月15日)の両方が「unopposed(対抗馬なし)」と書いています(2026年10月13日確認)。

失格の理由は、IFBBの外の大会に出たことでした。前年王者を争ったセルジオ・オリバは、IFBBが認めていないNABBAのミスター・ユニバースに出たあとでパリに来ており、出場を認められずに1年の出場停止を受けています。フランコ・コロンブやロイ・カレンダーらも、同時開催のIFBBのミスター・ユニバースから締め出されました。

オリンピアで失格した3人のうち、名前がはっきりしているのはオリバです。コロンブとカレンダーは、オリンピアではなく同時開催のミスター・ユニバースから締め出された側で、下の表はその区別で並べています。

選手締め出された大会理由
セルジオ・オリバミスター・オリンピアNABBAのミスター・ユニバースに出た。IFBBから1年の出場停止
フランコ・コロンブIFBBミスター・ユニバースIFBBが認めていない大会に出た
ロイ・カレンダーIFBBミスター・ユニバースIFBBが認めていない大会に出た

背景には、IFBBのベン・ウイダー会長がボディビルを1976年のオリンピックに入れようとしていた事情があります。オリンピック競技になるには資格のルールをはっきりさせる必要があり、この年、他団体の大会に出た選手を1年出場停止にする方針が打ち出されました。IFBBが自分の大会から選手を締め出したのは、これが初めてだったとされています。

当日はオリバとコロンブがゲストとして観客の前でポーズをとり、規定ポーズの比較相手として別の選手が舞台に立ったものの、正式な競技者ではありませんでした。賞金は1,000ドル。オリンピアがまだ一般のメディアにほとんど取り上げられなかった時代の話です。

1975年で引退、その直前を撮ったのが『パンピング・アイアン』

6連覇目の1975年は、南アフリカのプレトリアで行われました。英語版Wikipediaによると、映画『ステイ・ハングリー』の役のために体重を落としていたため、大会への準備期間は3か月しかなかったといいます。フランコ・コロンブを下して6連覇を果たし、大会後にプロボディビルからの引退を表明しました。

この1975年の大会に向かう日々を追ったのが、1977年公開のドキュメンタリー映画『パンピング・アイアン』です。大会前の練習や舞台裏が描かれ、一般の人がボディビルという競技を知るきっかけになりました。シュワルツェネッガーにとっても、ボディビルダーから俳優へ移る橋渡しになった作品です。

1980年の復帰優勝はなぜ今も論争になるのか|前日エントリーで2位と8点差

5年後の1980年10月4日、会場はシドニー・オペラハウスでした。シュワルツェネッガーはもともと、テレビ中継の解説役として現地に入る予定だったとされます。それが大会の前日になってエントリーし、そのまま優勝しました。英語版Wikipediaの大会ページが挙げる最終結果は次のとおりです(2026年10月13日確認)。

順位選手得点
1位アーノルド・シュワルツェネッガー300
2位クリス・ディッカーソン292
3位フランク・ゼイン291
4位ボイヤー・コー280
5位マイク・メンツァー280
6位ロジャー・ウォーカー277

点数は高いほど上位の方式で、2位とは8点差でした。賞金は総額5万ドル、優勝は2万5,000ドルで、1971年の1,000ドルから大きく上がっています。

論争になった理由は、体の仕上がりです。準備期間は資料によって7週間とも8週間とも書かれ、本人は出場を決めたのは2〜3週間前だと話しています。出場者や観客からは、全盛期のサイズが無く、とくに太ももの量と仕上がりが足りなかったという声が上がり、結果の発表では会場の一部からブーイングが出ました。

出典:英語版Wikipedia「1980 Mr. Olympia」(2026年10月13日確認)。同ページは Iron Man 誌の記事(2011年)やテキサス大学スターク・センターの論文「The Intangible Arnold: The Controversial Mr. Olympia Contest of 1980」を参考文献に挙げています。

ほかの選手の反応も激しいものでした。コーと同点で5位とされたマイク・メンツァーは、政治的に仕組まれた結果だと考え、この大会を最後にプロの舞台から退いています。3位のゼインは舞台裏でトロフィーを壁に投げたと伝えられ(本人は落としただけと話しています)、ゼイン、コー、メンツァー、ウォーカーらは翌1981年大会のボイコットを口にしました。大会を撮影したCBSスポーツも、予定どおりには放送しなかったといいます。

この勝利が正当だったかどうかは、40年以上たった今も意見が割れています。言えるのは、当時の審査員が300点をつけたという記録と、それに納得しなかった出場者がいたという記録の両方が残っていることです。

引退後は大会を作る側へ|1989年にアーノルド・クラシックを創設

1980年を最後に、シュワルツェネッガーはコンテストに出ていません。1982年の『コナン・ザ・グレート』、1984年の『ターミネーター』で俳優としての地位を固め、2003年にはカリフォルニア州知事に当選しました。

ボディビルとの関わりは、大会を主催する側として続きました。1989年、実業家のジム・ロリマーとともにオハイオ州コロンバスで始めたのがアーノルド・クラシックです。いまはストロングマンや格闘技、巨大なエキスポまで集めたアーノルド・スポーツ・フェスティバルの中核になっていて、プロボディビルではオリンピアに次ぐ格の大会とされます。大会の歴史と歴代王者、日本人の山岸秀匡選手が2016年に212ポンド級で優勝した話は、アーノルド・クラシックとは?にまとめてあります。

1970年のコロンバスは、シュワルツェネッガーがミスター・ワールドでオリバに初めて勝った街でもあります。その街で20年後に自分の名前の大会が始まった、という流れです。

アーノルドプレスと分割法|真似するなら名前より中身を取る

シュワルツェネッガーの名前は、トレーニングの種目名にも残っています。いちばん知られているのがアーノルドプレスです。ダンベルを顔の前で手のひらを自分に向けて構え、押し上げながら手のひらを前へ返していく、ショルダープレスの変形です。普通のダンベルショルダープレスより肩の前側を使う範囲が長くなります。

ダンベルショルダープレス
ダンベルショルダープレスのフォームと、主に効く部位(肩(三角筋)・二の腕)を示した図
効く部位 肩(三角筋)二の腕

初心者が取り入れるなら、先に普通のショルダープレスで、顔の前をまっすぐ通して耳の横まで押し上げるフォームを固めてからにします。手首を返す動きが加わるぶん、重さを上げると肩をすくめたり腰を反ったりしやすいからです。フォームの作り方と痛めやすい3つの形はショルダープレスのやり方に図つきで書いてあり、アーノルドプレスをどの段階で足すかもそこで触れています。

ダブルバイセップスのポーズで見せた腕も、シュワルツェネッガーの代名詞でした。腕を鍛える基本はダンベルカールです。

アームカール
アームカールのフォームと、主に効く部位(力こぶ(上腕二頭筋))を示した図
効く部位 力こぶ(上腕二頭筋)
真似したくなること初心者が取り入れる形理由
アーノルドプレス普通のショルダープレスが安定してから手首を返す分、フォームが崩れやすい
部位を細かく分けた分割法週2〜3回なら全身か2分割通える回数が少ないと各部位の頻度が落ちる
王者の練習量自分が回復できる量に合わせる競技者の量は回復の前提が違う

当時のボディビルダーが、部位を分けて高い頻度でトレーニングしていたことはよく語られます。ただ、シュワルツェネッガー本人の練習計画を週何日・1日何回と言い切れる資料は、今回確かめた範囲では見つかりませんでした。数字が独り歩きしている話は、そのまま真似しないほうが安全です。

部位を分けて回す組み方そのものは、いまも使える考え方です。週に何回ジムへ行けるかで2分割・3分割をどう選ぶかは筋トレの分割法に早見表があります。舞台で見せたダブルバイセップスなどの規定ポーズが、審査で何を見ているのかはボディビルの規定ポーズ7種で1つずつ解説しています。

身長188cm・腕22インチは公式記録か|数字の出どころを3段階で見分ける

シュワルツェネッガーの紹介には、決まって「身長188cm」「腕周り22インチ(約56cm)」「大会時の体重107kg」といった数字が並びます。ところが、出どころをたどると、記録として残っている数字と、本人の公称や出典の書かれていない数字が混ざっています。

数字出どころ扱い
オリンピア7勝、各年の開催地大会の記録、ギネス世界記録記録として確かめられる
初優勝23歳65日(1970年10月3日)ギネス世界記録の認定記録として確かめられる
1980年の得点300対292英語版Wikipediaの大会ページ(Iron Man誌・スターク・センターの論文を参考文献に挙げる)記録として伝わる数字
身長6フィート2インチ(約188cm)本人の公称大会での計測記録は見当たらない
腕周り22インチ(約56cm)出典の書かれていない紹介欄出典不明で確かめられない
大会時の体重235ポンド(約107kg)と246ポンド(約112kg)で割れる計量の記録ではない

いちばん確かなのは、大会の結果と、ギネスが認定した年齢の記録です。どの年にどこで勝ったか、何歳で初めて勝ったかは、日付まで記録が残っていて資料どうしで食い違いません。

身長は、本人が「6フィート2インチ」と語ってきた数字が広まったものです。大会の主催者が本人の身長を計測して公表した記録は見つかりませんでした。年齢とともに縮んだという話もありますが、こちらも裏の取れる数字はありません。

体重は、資料によってはっきり割れています。英語版Wikipediaの紹介欄は大会時235ポンド、オフ260ポンドと書きますが出典は付いていません。一方、1971年の大会を扱った The Barbell の記事は、この年の本人を「246ポンド」と書いています。年によって違ったとしても不思議はなく、どちらかが計量の記録というわけでもありません。

腕周りの22インチも、同じ紹介欄に出典なしで載っている数字です。測り方(力こぶを作った状態か、どこで測るか)も書かれていません。こうした数字に出会ったら、記録として残っているものか、本人や雑誌が言った数字かを分けて受け取ると、伝説と事実を混ぜずに済みます。

まとめ

  • シュワルツェネッガーはミスター・オリンピアを7回制した。1970〜75年の6連覇と1980年で、歴代最多はヘイニーとコールマンの8回
  • 1970年の初優勝は23歳65日で、ギネス世界記録の最年少記録。その前に20歳でNABBAのミスター・ユニバースを取っている
  • 1971年のオリンピアは出場予定4人のうち3人が失格し、対抗馬なしで勝った
  • 1980年は前日エントリーで優勝し、仕上がりをめぐって今も評価が割れる
  • 引退後は1989年にアーノルド・クラシックを創設し、大会を作る側に回った
  • 身長188cmは本人の公称、腕22インチは出典の書かれていない数字で、どちらも記録として確かめられる数字ではない

シュワルツェネッガーの経歴を知ると、オリンピアがまだ賞金1,000ドルの小さな大会だった時代から、いまの規模に育つまでの流れが見えてきます。1980年の得点表を、いまのオリンピアの採点と並べてみると、その変化がよくわかります。点数のつけ方は時代で変わり、いまはプリジャッジと決勝の合計で低いほうが上位になります。2026年大会でニック・ウォーカーが決勝で負けながら合計2点差で勝った仕組みは本人の記事に、大会全体の結果と日程はミスター・オリンピア2026の結果と日程にまとめてあります。

ご注意: 戦績・得点・開催地は2026年10月13日時点で確認できた資料にもとづいています。1960〜80年代の大会は資料によって細部(準備期間や体重など)が食い違うことがあります。アーノルドプレスなど本文で触れた種目は、肩や手首に痛みがあるときは行わず、軽い重さでフォームを確かめてから始めてください。トップ選手の練習量や減量の方法は、一般の体づくりの量とは前提が違います。

よくある質問(FAQ)

アーノルド・シュワルツェネッガーはミスター・オリンピアで何回優勝しましたか?
7回です。1970年から1975年までの6連覇と、引退から5年空けて出た1980年の1回を合わせた数で、メンズ・オープンの歴代最多はリー・ヘイニーとロニー・コールマンの8回、7回はシュワルツェネッガーとフィル・ヒースが並びます。1969年の初挑戦はセルジオ・オリバに敗れて2位でした。
シュワルツェネッガーのミスター・オリンピア初優勝は何歳のときですか?
1970年10月3日のニューヨーク大会で、23歳65日でした。ギネス世界記録が「最年少のミスター・オリンピア優勝者」として認定している数字です。その3年前の1967年には、20歳でNABBAのミスター・ユニバース(アマチュア)を同大会の最年少で制しています。
シュワルツェネッガーの1980年のミスター・オリンピア優勝はなぜ批判されたのですか?
解説の仕事でシドニー入りしていた本人が大会前日にエントリーし、準備期間は7〜8週間と伝わる状態で優勝したからです。得点は300点で2位クリス・ディッカーソンに8点差でしたが、太ももの量や仕上がりを問題視する声が出て、5位のマイク・メンツァーはこれを最後にプロの大会から退きました。